こんにちは。ONOD家へいへいまーです。
ご訪問いただきありがとうございます。
今日は3月11日。
東日本大震災があった日ですね。
私はニュースでもよく取り上げられる津波の被害が大きかった
宮城県沿岸部に住んでいます。
我が家も自宅1階は津波被害にあいました。
それぞれ違う場所にいた家族は運よくみんな無事でしたが、
たくさんの親戚、友人、知り合いが亡くなりました。
3月11日は、その方々の命日でもあるわけです。
今回は助かった私がこの日に思うこと、書いてみようと思います。
震災当時の様子や、ちょっと重い内容を書いてますので、
ちょっと嫌だな...と感じた方、この記事はスルーして下さい。
この日に思うこと
14時46分、黙祷。
...ここから始まったんだよ...
...この時間は、まだ生きているんだよ...
ザワザワした気持ちで目を閉じ、
そこからの1分1秒が思い出されて、色々な感情に襲われます。
みやぎ鎮魂の日
宮城県では、この日を「みやぎ鎮魂の日」としていて、
県内各地で追悼式があります。
小中学校が休校や午後休校になるので、
我が家の子どもたちも今日は給食なしで午前中に帰ってきました。
そして私も夫も午後は休み。
被害にあっていても、あっていなくても、
いつもと違う一日なのです。
守れた命
あのとき私は妊娠5カ月、双子の末っ子がお腹の中におりました。
職場から自宅に戻り、義母と長女と長男と会うことが出来ました。
状況を細かく書くことは色々ありすぎて難しいのですが、無事。
結局私は腰まで津波に浸かってしまい、
着替えも、石油ストーブもない
近くの中学校の体育館で、濡れたまま一晩過ごしました。
雪がチラつくほどの凍える寒さの中、
お腹の子はダメかもしれないな、と思いながら、
目の前の長女と長男を何とか暖めようと努めました。
長い長い夜。
実はその日の午前中、実家の母が
双子の安産祈願をしてくれていて、
昼休みに電話で話したのを、うっすら思い出し、
頑張れ、とお腹の双子に呟きながら過ごしていました。
そのときはダメかと思った双子ですが、今は元気な小学生。
双子の成長と震災の記憶と、いつも一緒に考えます。
もう8歳になるの?あれから8年経ったのかぁ、といった具合に。
長女、長男、次男、三男、あのときみんな頑張ってくれて、
今そばにいてくれます。
私は幸せです。
感謝
震災のあと、夫とは翌日の午後、自宅で再会できました。
電話が繋がりにくかった地震発生後、
夫とは運よく3回も携帯が繋がり、
お互いの無事を確認できていました。
夫は津波でめちゃくちゃになった、道路も何もないようなところを
何時間もかけて歩いて帰ってきました。
とにかく無事でいて良かった、それだけでした。
実家の父もガンの手術をし、リハビリをこれからゆっくりと思っていたところ、
退院して二日後に震災です。
実家はだいぶ山側で津波の被害はなかったのは救いでした。
港近くで仕事をしていた娘、私のことですが、
連絡が取れなかったため、父は心配でその日の夜、探しに行ったと母から聞きました。
跡形もなく流された、辺り一帯真っ暗の中を。
二日後、何とか自宅まで来てくれた父に、泣かれました。
無事で良かった、と。
私が横浜にいた頃の友人や先輩は、安否確認を一生懸命してくれていました。
私の旧姓しかわからない先輩も、ネットで呼びかけてくれていました。
津波の様子や火災のことなど、当の本人は情報が全くなくわからない状況でしたが、
逆に横浜の友達の方がニュースを見て一部始終を知っていたようでした。
(電気が復旧してテレビで映像を見たのは一か月後でした。)
携帯の電源は切れていましたし、繋がりにくかったですし
数日後に充電して目にした着信の数、
ものすごかったです。
友達と話が出来た時は、無事で良かった!
と泣いていて、本当に心配してくれてました。
そして、みんな支援を申し出てくれました。
本当に、本当に助かりました。
ありがたかった。
未だに子どもたちに本を送ってくれる友達がいたり、
宮城のもの買ってるよ!とラインが来たり、
実際に何度か美味しい海の幸を食べに来てくれたり、
いつも気にかけていただいてて、
本当に感謝しかないです。
みんなだってあのとき、大変な思いをしていたのに。
日本だけじゃなく、たくさんの方々が助けてくれました。
8年経った今も、いろんな形で。
ありがとう。
生活する
みんな、言葉にしなくても抱えています。
誰もがそうですよね、
辛い思いはなかなか口に出せないものです。
それでも少しずつ吐き出して、
自分の中で気持ちの整理ができてくることもあったり。
いつも明るいあの人、
お家流されてたんだね、
親や兄弟や子ども、亡くなってたんだねって
後で気づくことがよくあります。
幼稚園の先生が自分のお子さんを津波で亡くされていたり、
職場の方が親を亡くされていたり、
子どものお友達はお父さんが、など。
私の中学の同級生、半数以上は実家が津波で損壊しています。
気を遣うから、気を遣わせるから、
みんな当時の辛い部分を多くは語らないけど
色々な思いを笑顔の奥に抱えながら、
頑張って生活してます。
一方で同じ市内に暮らしながらも
妬みそねみが渦巻いてたりもしてるんです。
想いの温度差があるのです。
被災した人、
してない人、
お家を再建した人、
やっと復興住宅に住み始めた人、
会社が軌道に乗ったところ、
倒産したところ、
義援金がもらえた人、
もらえない人、
色々な状況の人がいますから。
復興という言葉と、被災地のニュースが、
自分たちの住むところじゃない
なぜかどこか遠くの話に感じたり。
少しだけ立ち止まったままの心もあります。
それでも、たぶんこの港町の人たちは
活き活きと生きよう!
そんな気持ちで一日一日を進んでいると思います。
さいごに
震災から8年。
各地でも災害が多く発生していますね。
そんなニュースを見るたびに、胸が苦しくなります。
私に出来ることはわずかな募金くらいですが、
寄り添う気持ちだけは忘れずに持っていようと思っています。
私としては、
小さなことが気にならなくなったり、
許す気持ちが大きくなったり、
普通でいられることが嬉しかったり。
流されて失ったものも多いけど、気づけたことも多い、かな。
今日は大雨。
亡くなった方々のご冥福を祈りながら、
変わってしまった街を眺めながら、
そんなことを思って過ごしていました。
今回は重い内容でしたが、
被災地に住み続ける私が発信できるものもあるのかなと、
ザックリしたものではありますが、
今の状況と心境を綴ってみました。
そして!明日からはまたいつもな感じでまいります!
自分らしく活き活きと。
最後まで読んでいただきありがとうございます。